81.【萩焼】について改めて考えてみた ④大衆芸術編

こんにちは、のぶちかです。
今回は萩焼の中から「大衆芸術」編をお送りします。
先ずは「大衆芸術」とは何か↓?
※説明の便宜上、「大衆芸術」が「大衆文化」に内属される事から以下引用は
「大衆文化」より引用しています
大衆を担い手とする文化。生活水準の向上、教育の普及、マスコミの発達などを基盤にして形成され、大量生産・大量消費を前提とするため、文化の商品化・画一化・低俗化の傾向を伴うことが多い。
引用:三省堂 大辞林 第三版「大衆文化」
厳密には色々と補足の必要がありますが、各萩焼を各芸術にカテゴライズした場合にどう当てはまるかという独自の考え方なので悪しからず。
上記の説明によると、「大衆芸術」のポイントは「大量生産・大量消費」という点になります。
作り手の構造整理

上図から分かる様に、この「大衆芸術」にカテゴライズされるのは、「御用窯」や「作家」とは異なる枠の中で活動されている方々となります。
先ずは③「フリー職人」から見ていきます。
フリー職人

「職人」と表記していますが、どちらかというと「作れる人」という意味合いを強めています。 79.応用芸術編でも記した様に、萩焼は「いわゆる『作家』を尊び、それ以外の『職人』や『個人』を格下扱いしてきた」経緯がある事から、作家や売り手サイドが、「作家」ではない立場の人を呼び分ける為に「職人」とひと括りに呼ぶ事があったので、便宜的に「職人」と記しているだけで、一般的な「技術を磨き上げて極めようとする」イメージの「職人」とは異なります。
さてこの「フリー職人」層はかなり高齢の方が占めています。70~80代の方も多く 、萩焼の人気絶頂期に萩焼を始められた方が多い事と、年齢的事や実利を追わないほぼ趣味の領域で活動されておられる方、そしてごくわずかながら若手(30代~40代)層によって構成されています。
正直に言うと、この「フリー職人」層に関してはあまり情報が無いので語れませんが、萩焼界の中のひとつの枠組みとして記しておきます。
メーカー

「メーカー」と書くと100均に並ぶ様な機械製のもの作りを連想しそうですが、萩焼の場合はそうではなく、むしろ職人の手作りや半自動でのもの作りとなります。
その為、完全オートメーションよりは高価になりますが、製品としては手作りの優しさが表れるものが多いです。
メーカーのメイン顧客は「ギフト問屋」や「ブライダル会社」で、基本的には伝統的表現やそれにほんの少しの意匠を入れたものにニーズが高く、つまりそれは、
「萩焼」
と分かりやすいものが要求されている事を意味します。
また、
メイン顧客が「ギフト問屋」等である事から、そこからのニーズベースのもの作りが行われる事により、先端を走るエンドユーザー向けの商品展開とはそもそもスタートが違う点も特徴のひとつです。
メーカーの変化
しかしそんな中、
最近の萩焼メーカーの動きには変化が出てきました。
それは、
・エンドユーザーを意識したデザインと値付け
・萩焼素材のデメリット(茶人等、一部の層にとってはメリット部)に対する研究及びアウトプット
の2点です。
ちなみにこの2点が及ぼす効果は、萩焼の新規顧客開拓を期待できる事です。
なぜなら、従来の萩焼を好む多くの年齢層は60~80代の為、従来のデザインをこのまま採用し続けてもこれ以上の消費は期待しにくいからです。
一方、
今の器ブームをけん引する年齢層は30~50代が主流なので、デザインをそのニーズに合わせていく事は、振り向いてもらえる可能性を高める事に繋がります。
またメーカーはデザインのみならず、萩焼の欠点と見られやすい素材への研究にも力を入れています。
ちなみに従来の萩焼の特徴は、
・欠けやすい
・変色する
・カビが生えやすい
などがあります。
これは一方で茶人の中では「萩の七変化(ななばけ)」と呼ばれ、使えば使う程に変化していく焼物として喜ばれたメリットでもありました。
しかしそれらは時代の変化と共にデメリット化されていき、今ではそれが原因で萩焼を敬遠する顧客も増え続けています。
その様な状況下で、
「いや、これが萩焼の魅力だから譲らない!」
というのもひとつのあり方でしょうが、商業ベースで考えた場合、ニーズの少ないものを作り続ける事は危険極まりない行為となります。
その点、メーカーはこのデメリットに対し少しでも改善を図れる様に努力が進んでいます。
またその事はエンドユーザーへの直接的働きかけを促す武器ともなり、「ギフト問屋」依存型経営による薄利多売構造から抜け出せる一手ともなり得る為、今後の生き残りをかけて大きな可能性を帯びてきます。
「作家物>職人」、「作品>食器」構造の見直し期
ハイカルチャーが貴族やブルジョワ階級及び、知識・教養を持つ層のみが享受できる文化だった時代が19世紀までで、20世紀に入るとそのハイカルチャーの大衆文化化が始まります。

この事は、大衆にも芸術に触れる機会をもたらし、大衆の中にも芸術の良し悪しの判断ができる数を増やすきっかけとなりました。
ちなみにハイカルチャーは、
「あくまで、 社会的な上位者である権力者・知識人が愛好する『文化』であることから、社会的に高い位置づけをされているだけであり、現実に創造力の具現としての価値が高いかどうかは別問題である。」
引用: ウィキペディア 「 ハイカルチャー 」
という指摘も含まれています。
上記赤文字部を私なりに咀嚼すると、
「想像力の具現」とは「作品」を意味します。
つまり、
ハイカルチャーに類したジャンルであれば無条件に価値が高い、という事とは異なり、そのアウトプット(作品)自体の価値は個別に判定する必要があるという事。
これを萩焼(美術工芸全般)に置き換えて言うならば、
「作家物は作家物なだけで価値が高い」
という論法は今後、より通用しにくくなるという事です。
例えば、
作家本人が自らの作品をハイカルチャー(ないしはファインアート)に属するものと定義付け、また自らを高尚な「作家」と定義付けても、作品自体の良し悪しのみで純粋に判定できる鑑賞者の前では、そのクオリティーが低い場合は通用しなくなるという事です。
私の修業時代、特権階級の中にある鑑賞者であっても、その多くはその作品の良し悪しの判定を「ブランド力」に依存しやすいという例をたくさん見てきました。
またその理由は、
「これだけのブランドなんだから誰も悪いとは言わない(言えない)だろう」
という安心と保険的な部分も大きかったからと推察します(特に茶道具に関しては物の出来以上にブランド力が必要な場合が大きいので、一概には言えませんが)。
しかし、
ハイカルチャーの大衆文化化が進むにつれ、大衆の鑑賞眼は驚くほどスピーディーに上がってきています。
「これが本当にそこまでの対価に見合う作品だろうか?」
という感覚の大衆が増えれば、
「作家=良いものを作る人」
「作家物=高価で当たり前」
「作家物=芸術性が高い」
「作品=食器より価値が高い」
というこれまでの価値観がどんどん通用し辛くなっていきます。
つまり、
萩焼はこれまで職人や食器を茶陶や作品と呼ぶものの前で格下に見てきた歴史がありましたが、これからはそれが逆転していく可能性も十分あるという事です。
その場合に萩焼作家に類する方々に必要なのは、
「職人が作った食器だから価値が低い」
という先入観を捨てて、そこに宿る美を見抜いていく感覚を(再)養成する事だと考えます。
というのは、萩焼作家の中には職人への「格下」という見方が強過ぎて、そこに確かに宿る美を見る事も無く「価値が無い」ものとして位置付けてしまう傾向が強いからです(全員ではありません)。
以上から、これからの萩焼が階層を超えて相互にそれぞれの良さを認め合える様に変われれば、それだけでも萩焼全体の未来は変わっていくと見ていますし、その上で萩焼メーカーが少しずつでも起こし始めたこの変化は、今後の萩焼を存続させていく上でとても大きな役割を担っていると考えています。
まとめ
・萩焼メーカーは時代のニーズを捉えたもの作りにシフトを始めている事から、次代の萩焼人気をけん引する可能性が高い。
・ハイカルチャーの大衆文化化が、大衆に作り手の階層を超えたものベースでの鑑賞力を高めた結果、「作家>職人」、「作品>食器」という従来の価値観を崩し始めている為、萩焼の「自称作家」が低いクオリティーでもの作りを続けていくと、「職人」による高いクオリティーの食器に逆転されていく可能性が高い。
・萩焼界は各階層を超えて相互にそれぞれの良さを認めっていくべき時代。足の引っ張り合いではなく、学び合う姿勢が大切。
本日は以上です。
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