2019.6.1. ブログスタート! 

78. 【萩焼】について改めて考えてみた ②ファインアート編

78. 【萩焼】について改めて考えてみた ②ファインアート編

※本章は萩焼に関する基本的な内容に触れるものではありません。
※本章には私の個人的見解が大きく含まれます。

こんにちは、のぶちかです。

さて前回、萩焼が3階層により成り立っている事が分かりました。

ちなみに前回は階層の軸を「芸術性」としましたが、便宜上「芸術性」と表現しただけで内実の如何はそれぞれ個人差がある事と(後述)、商業ベースで考えた場合の階層はまた異なる事や、各階層の優劣を示す意味ではない事を予めおことわりしておきます。

それでは本日は主に、各階層それぞれに関しての考察及び持論を展開していきます。

ファインアートとしての萩焼

<ファインアート制作者>
龍気生(12代三輪休雪)、 13代三輪休雪(三輪和彦)、 三輪華子 (敬称略)

私の主観では、萩焼においてファインアートと呼ぶ事が可能な作家は上記3名と非常に少ないです。

ポイントは2点。

芸術的価値を専らにする活動や作品

実用を排している

区分する基準としては、主たる制作物がこの2点の比率を大きく占める作家、ないしはその作家を想起する代表作品が公にこの2点に帰属する作家としています。

ちなみに龍気生氏は以前私に

「俺が創っているものは萩焼じゃない」

とお話くださった事から、龍気生氏を「萩焼」にカテゴライズする事が正しいかどうか判断が難しい所ですが、所在地、素材の点から便宜的に「萩焼」とさせて頂いております。

また、

基準設定をその様にしている為、制作物の一部が上記2点に帰属し尚且つ(私目線から)非常に高い意匠性を持ち公的にも受賞歴(グランプリ・大賞レベル)を持つ萩焼作家を数名「ファインアート」に類していませんが、その事がその制作物及び作家の芸術性を低くする事にはならないのでここに補足しておきます。

芸術とは?

概念が時代と共に変遷している事が原因か、確固たる定義付けが困難に見える「芸術」ですが、その中でも次の前提条件に沿って考えてみます。

表現者側では、その働きかけに自分の創造性が発揮されること鑑賞者側ではその働きかけに何らかの作用を受けることなどが芸術が成り立つ要件

引用: ウィキペディア 「芸術」

この説明の抽象感がいかにも「芸術」という感じがしますが、

さて、たまに作り手に作品の説明を求めると、

「(説明し尽くしてしまうよりも)観る方の想像にお任せしたい

という発言を耳にする事がありますが、これは上記の視点から言えば

「表現者は自らの働きかけ(作品)に何らかのメッセージを込めているので、次はそれを鑑賞者が汲み取る番だ」

という意味になるでしょう。

それは一方で、

表現者はその論法を盾に自らの働きかけ(作品)にメッセージ性を含めずとも(あるいは含める事ができなくても)、「観る方の創造にお任せする」というスタンスを採る(逃げる)事ができるという意味でもあります。

しかしこの場合、

社会的な上位者である権力者・知識人が愛好する『文化』 としてのハイカルチャー(主に19世紀まで)の中に芸術がカテゴライズされている以上、表現者の働きかけ(作品)が拙い場合は優れた鑑賞者(高い知識・鑑賞眼を持つ意味で)を前に訴える力が弱くなり、鑑賞者がなんらかの作用を受けるまでに至らず芸術の要件を満たす事はありません。

そうなると、

「作りたいものが分からない」

「何を作ったら売れるだろう?」

「とりあえず芸術家に見られたいから作品的なものを発表しておきたい」

という様な状態から生まれた働きかけ(作品)は、その時点で芸術と呼ぶ事が難しいと言わざるを得ず、優れた鑑賞者には伝わらない(創作に及ぶ発露の空虚さがバレる)事も容易に想像させます。

つまり、

本質的な芸術家としてのあり方とは、一見芸術活動に見える行為(内発的動機が空虚な制作活動)」だけでは相応しくなく、鑑賞者を突き動かすような強い思いや思想をベースに働きかけるもの、であると考えます。

その点で、

萩のファインアートを担われている上記3氏は、制作・表現への熱い渇望を元に、長きにわたって自由闊達な表現及び活動をされてこられ、そこには「自分の創造性」が十二分に発揮されており、また、優れた鑑賞者にも余りある作用が生み出される結果がもたらされてきました。

仮に生来、それを可能にする環境があったにせよ、その環境自体が自律的に働きかけ(作品)を生む事にはならず、やはり個人で知識や思想を高め、優れた鑑賞者に何らかの作用をもたらす作域まで練り上げるにはそれ相応の努力が必要です。

尚且つ、

その作域に達した場合に起こるのは、理解者(≒消費者)の絶対的少数化。

仮に作品がとても高価だったとしても、売れる数が圧倒的に少ないという現象が起こります。

「芸術で食べていく事」

が難しいのはこの点なのです。

萩の若手作家の中にも芸術家を目指す人がもしおられればそれは本当に崇高な事だと考えますし、ぜひ挑戦して頂きたいです。

ただでき得るならば、

鑑賞者や消費者におもねった逆算の思考から作品を生み出すのではなく、各環境の中で最大限「自分の創造性」を発揮して頂きたいのです。

なぜなら、

芸術が成り立つ条件が、作品それ自体では完結せず鑑賞者に何らかの作用が生まれて初めて成立するものだから。

その為には「作れる技術」のみに頼るのではなく、表現(制作)にかかる内発的動機をいかに自ら呼び起こすかが重要で、その状態を作る為には日々、自らがどうあるべきかを問うところから始める必要があると考えています。

芸術のハードルが高い理由はそういう意味での自己研鑽の必要性なのでしょうが、ある意味、その過程においての自己成長こそが優れた鑑賞者との相互作用を生む条件とも考えます。

まとめ

現実問題として表現(制作)の後ろ盾となるものもジャンル、規模感に応じて必要な芸術ですが、そのもっと手前にある内発的動機の有無が、結果として萩焼のファインアートの数の少なさに比例していると見ています(良い悪いではなく)。

本日は以上です。

次回は遂に萩焼の真骨頂、「茶陶」について考えていきます。